おや?親のとびら

走り続ける社会で、”立ち止まる自由”を

2018.11.7 [GAOのつぶやき,おや?親のトビラ,思春期,親育ち]

今日の中学3年生の国語の予習をしていて
ちょっと思ったことがあったので記してみます。

読んだ文章は、岡部伊都子氏の「美を求める心」から出題の文章です。
ざっくりとした内容はこんな感じ。

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ダリ展にいった。本当は一人ゆっくりと鑑賞したいところだが、
せまい会場には人があふれており、そんなことはできない。
鑑賞する人の中には団体客もいる。
もちろん、団体客の一人一人だって、ゆっくりと自分のペースで見たい人もいるだろう。
しかし、限られた時間の中での団体行動に、そんな個人の思いを実行するのは、まあ難しい。
本当に実行したならば、すなわち他の人々への迷惑となる。

「どこにゆくにも不自由だった時代からみれば、にぎやかに団体旅行の楽しめる今日はありがたい。
しかし、団体の動きの限界を見極めた人は、そこから出発してさらに強く明るい自主の歩みをはじめたいだろう。」

筆者は、「‟立ち止まる自由”を奪われたことは、‟動きまわる自由”を奪われるに等しい怒りなのだ。」という。

さらに、「動きまわる自由のない時代がなかったために、停滞は古さ、と思いまちがわれた。安心して立ちどまり、心ゆくまで、納得できるまで、たたずんでいるうちに、ふと発見しうる新鮮な角度もあるだろうに。」と。

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ふと、思った。

私たちの生活の中に、「停滞は古い、停滞は悪い」といった価値観は意外と多いんじゃないかって。
大人はもちろんだけれど、子どもはもっともっと、無意識に走り続け、大人以上に「停滞は古い、悪い」という刷り込みの中に生きている気がする。

全国12万人ともいわれている、不登校の子どもたちがいる。

周りから見ると、不登校の状態は「停滞」の状態。

しかし、本当に「停滞」するなんて、ありえない。だって、生きている限り、思考は停止しないから。
不登校の状態になっている子どもたち、た~くさん考えいるはず。
「よりよく生きていきたい」という気持ちをもっている。

だから、
‟立ち止まる自由”を許可してみようよ、と私は、親御さん、きょうだい、お友達など、周りにいる方たちに、伝えたい。

また、もしかしたら…
みんなもまた、気づかぬうちに‟立ち止まる自由”を奪われている当事者なのかもしれない。
みんなにとっても、自身の枠を広げるチャンスが今なのではないかな。

「他律的に動かされていることを自主的に動いていると錯覚しては危険である。」

不登校などのような当事者、当事者家族になっていると、
なかなか状況を受け入れられないし、先が見えない不安に恐怖さえ感じることもある。
わたしもそうだった。そういうときがあった。
それでも、‟立ち止まる自由”を、許可してほしい。
受け止めてみると、何かが変わるかもしれない。
少なくとも、私は変わる経験ができた。
子どもが自分で一歩を踏み出し、自主的に考えて行動するようになった。
‟停滞するのも悪くない。” と思えるようになった。

だから、‟立ち止まる自由”を許可してみて、と切に願う。

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